67回目の終戦記念日
彼は、何人かの戦争を経験しているお客さんから、話を聞いた。


特攻隊員として、鹿屋の基地へ赴いたこと。
当時は、どんどん出撃していく先輩たちを見て、自分も早く行きたいと感じていたこと。
不思議と怖さはなく、むしろみんな妙に明るく振る舞っていたこと。


3月頃に鹿屋から三重県鈴鹿辺りに移り、山の裾に掘った防空壕で過ごしたこと。
その壕では、虱がすごくて参ったこと。


塹壕から25㎜の機関銃で、米軍機を撃ったこと。
同じ塹壕にいても、撃つ係の時は夢中になっていたが、弾を補充する係の時は怖くて怖くて仕方がなかったこと。


弾薬庫から弾を運んでいるときに、米軍機の機銃掃射に遭い、九死に一生を得たこと。


死体を焼いている臭いが、鯖を焼いているときの匂いに似ていて、しばらく鯖が食べられなかったこと。


終戦があと一日遅ければ、特攻隊員として出撃していたこと…。


ある人は、7月9日の和歌山大空襲を知らずに終戦を迎えたこと。
またある人は、その空襲で家が全焼し、知り合いのお寺を間借りしたこと。


彼らの世代は、そんな経験をしたことがない。
だからこそ、それを能動的に知り、考えることが、彼らの世代に課せられたある種の使命であると彼は勝手に感じている。


地域のお年寄りと接する機会が多い今の彼の仕事は、彼が自分の生まれ育った町で、あの時代、あの瞬間を過ごした人たちの話を聞くことができる、貴重な仕事である。
その機会をみすみす逃すのは惜しすぎる。


そういった話に日常的に触れられたということ。
それは彼が、例えば誰かにこの仕事の意義について問われたときに、その答えとなり得るほどに価値のあることだったと言えるかもしれない。


67回目。

あの日、人間魚雷の練習をしていた18歳の少年は、ぼくの目の前で、85歳のおじいちゃんとして存在している。
終戦を迎え、結婚をして、子どもにも孫にも恵まれ、すこし噛み合わない会話を奥さんにたしなめられながら、今を穏やかに生きている。


一方で、消えてしまったたくさんの“今”。
それらはいったい何故、何のために奪われなければならなかったのか。



「そんな昔のこと」を知ろうとしないという選択も、忘れてしまうことも、あまりにも簡単すぎて、ばかばかしいなぁ。


そんなことを、仕事の合間に考えた一日だった。