金曜日の午後の有意義な過ごし方

今日は、午後がの講義が全て休講になるという年に一度の奇特な日である。

その貴重な時間をどう使うか…それを考えることは我々に与えられた重要な課題であった。

午前中の講義を受けた後、我々は昼食をとりつつ他愛のないおしゃべりを嗜み、そして、それぞれの貴重な午後のために勇んで大学を後にした。


大学を後にした私は一度家に戻り、その後緑の電車に揺られて三条に出向いた。
有意義な午後の過ごし方その一、“歯医者に行く”である。
そこで約一時間を過ごし、それ相応の対価を払った。
すると財布の中にF氏やH氏はおろかN氏さえ一人も見当たらなくなってしまったため、取り急ぎ郵便局へ赴き財布に心ばかりの補給をしてやった。

そして有意義な午後の過ごし方その二、“街を歩く”を遂行する。
寺町通りの315円均一ショップや蛸薬師通りのロフトなどを覗き、新京極通りの無常を肌で感じ、紀伊國屋書店でお気に入りの本がしかるべき待遇を受けているかを確認した後、寺町通りにあるドーナツ屋で足を休めることにした。

ここで行われるのが、有意義な午後の過ごし方その三、“勉強”である。
講義が休みのときにこそ勉学に励むという、模範的大学生と賞賛されてしかるべき人物といえば、今この瞬間の私であろう。
誰か横で心ゆくまで私を持て囃してはくれぬものか。
人間は褒められると、目の前にご馳走が置かれたときと同じ成分が脳から分泌されるらしい。ならば、目の前にドーナツを置いた私が褒められれば居ても立ってもいられなくなるくらいの、前代未聞のパワーが全身に漲ってくるに違いない。


斜向かいには、なにやらぶつぶつと言葉を発しながら勉学に励む男が一人。彼もまた、誰かに褒めてほしくてぶつぶつアピールをしているに違いない。しかしあまりにもぶつぶつ言い過ぎて周りの人から警戒されている。あれでは本末転倒である。褒められることが彼にとっての“本末”であることは、不動のテーゼであろう。

見ていると、その男、異常なほど頻繁にホットカフェオレをお代わりし、引っ切りなしにトイレと席を往復している。
欲求と目的の間の迷宮にはまり込んで、もはやなにかに取り付かれたような有様である。

一時間後、彼はその永久に続くかのように思われた往復を断ち切るかのようにお盆をさげると、そのまま鞄を持って出ていってしまった。

その間、私はわずかに一度だけカフェオレをお代わりし、ドーナツを半分だけ食べた。


ホットカフェオレを飲む際には、必ず右手と左手で交互に飲まねばならぬ。
唇の痕を見た店員に、私が左右どちら利きなのかということを悟られないように、という崇高な理由のためである。
たとえ、お代わりをもらう際に右手に持っていたペンを置いてカップを差し出すのを店員に見られたとしても、そして誰ひとりとしてそんなことを気にかけていないとしても、だ。

そうして精神世界で高度な遊びをひそかに展開しながら、閉店時間の午後10時が来るまでもくもくと、そしてかたつむりの歩みのごとくのたのたと勉学に励んだのであった。


自己満足と勉学面における実益を少しばかり兼ねた、実に有意義な金曜日の午後であった。