自転車の文化

街で面白いものを見た。

自転車に乗った外国人女性だ。
白人で黒い髪は短く、キャスケットを被っている。歳は30半ばといったところだろうか。
その女性が、三条河原町を少し下ったところの右側の歩道を北に向かって歩いていた私の前から颯爽と走って来た。
彼女は走りながらちらちらと車線を気にしていたので、「反対側に渡りたいのかな」という印象を周りに与えた。
(一体どれだけの人がその瞬間、その女性の行動に注目していたのかは定かではないが、少なくとも私はそう思った。)


ところが、私が勝手な予想をした瞬間、彼女はおもむろに車線を一瞥したかと思うと滑らかな弧を描いてUターンし、大方の予想を覆して片側二車線道路の真ん中を走りだしたのだ。


そして驚く人々の(私だけかもしれないが)視線をものともせず、涼しい顔で道路の真ん中を走っていたかと思うと、車のいないスペースを見計らって左車線に滑り込み、すいすいと走っていく。
それは違和感を違和感と思わせない堂々とした走りっぷりで、もはや車と車の間に入り込んで走る彼女を一体誰が咎められようか、というような雰囲気があった。


そのときである。彼女の前を走っていた車が、三条の交差点を右折するために一時停止した。
さすがに、車道には停まるまい。
「これでやっと端っこに避けるかな」と考えた私は甘かったようだ。
なんと彼女は、端に寄るそぶりなど微塵も見せず、一時停止した車の後ろにそのままならんで停まったのだ。
ここまできたら、付いてないはずのウインカーさえ見えるような気がして、そんな光景に笑みがこぼれた。
私は一人にやにやしながら歩き、すれ違う人々の顰蹙を買ったが、そんなことなど知らない彼女は当然のように前の車に続いて三条通りを東へ走っていった。




このことを彼に話すと、彼が去年の春に留学していたスペインでは、自転車が車道を走るのはあたりまえの風景だったと感慨深げに言った。
自転車も立派な“車”であるのだから車道を走るのは当たり前で、逆に自転車専用道のない歩道は走れないのがヨーロッパの普通なのだろうか。そう言われれば確かにそうかもしれないと思う。
そしてそれは、どこもかしこも自転車や原付で溢れかえっている中国やベトナムなどアジアの国々とはまた違うのだろう。


彼が言うには、ヨーロッパの人々はすごいスピードで自転車を走らせ、車に混じってぴゅんぴゅん通り過ぎていくのだそうだ。それは想像を絶する速さらしく、日本のママチャリ文化には到底越えることのできない壁を感じたのだと言う。
バルセロナでは、いかにもハーレーに乗りそうな恰好をしたひげもじゃのオヤジが、ハーレーのような形をした“自転車”に乗ってロータリーを回ってるのを目の当たりにし、あまりの光景に目を見張ったまま二度見したものの、驚きとその速さゆえに写真を撮ることさえままならなかったこともあったらしい。


それはともかく、つまり、私が見た外国人の女性は、彼女にとってはいたって普通のことをしていただけだったのだ。それが、私の目には滑稽に映った。


以上のことから言えることは、私たちが日常生活の中で普通に行っている行動も、一定の文化圏を出てしまえばそれは普通ではなくなるおそれがある、ということだ。


なんだか長い割にはどうでもいい、おかしなところに着地してしまった。春だ。