人助け論

彼はよく、知らない人から道を尋ねられる。
その傾向は、高校生のときに一人旅をするようになった頃から見られるようになった。
旅先などの知らない土地でも、日本人、外国人を問わず道を尋ねられるので最初は困惑することもしばしばあった。
しかしあまりにもよく尋ねられるのですぐに慣れた。


そういう経験があってか、彼はよく、道に迷っている人を見つける。
そして困ったことに、やたらと話し掛けたがる。


近頃では「ぼくは困っている人が大好物だ」と公言しているほどである。
かなり語弊のある言い方ではあると思うが、その言葉に遜色はない。困っている人を見ると、彼は本当に目を輝やかせるのだ。


先日、彼と私が河原町三条を歩いていたときも、三条商店街が河原町に突き当たるところで地図を見て立ち止まっている外国人を見つけて、彼は色めき立った。
そしてその人が本当に困っているかどうかを確認するために何度もその人の横を往復し、チラチラと見た。


かなり怪しい。

しかし、幸か不幸かその外国の人には怪しい彼に気づく余裕がなかったため、彼は怪しまれることなくその人に話し掛けた。


話によると、その人は最寄りの地下鉄駅に行きたいのだという。
我々は、「まっすぐ行くと三条駅があります。橋を渡ったところですよ。」というようなことを教えた。外国の人は、お礼を言って歩き出し、我々はそれを見送った。


しかし、彼が尋常ではないのはここからだ。
なんと彼は、「三条駅には地下鉄と京阪があるから、あの人は間違うかもしれない」と言い出し、おもむろに後をつけ出したのである。


結局我々は、三条大橋を渡り、駅の入口を下り、気まぐれにパン屋を覗いたりする外国人にやきもきしながら、きちんと地下鉄の方へ歩いて行くのを確認してから再び地上に出た。


なんというお節介か。
いや、ただのお節介なら一緒に地下鉄まで案内すればいいのだから、こっそりと後をつけていった彼とお節介とを一緒にしてはお節介に申し訳ない。
彼の場合は、心配性と変質者を足して2で割った、なんだかよくわからないものだ。
差し当たりそれを、“阿呆"と呼ぼう。


彼はまた、「ぼくは、100%自分の好奇心と自己満足のためだけに人助けをするのだ」とも言っている。
世の中に数多くいるであろう“人助け好き"と彼の重要な相違点はそこである。

彼は“困っている人のために"人助けをするのではなく、“自分のために"困っている人を助けているのである。

つまり、“困っている人を助けたい!"ということではなく、“困っている人を助けて自分がスッキリしたい!"ということが直接的な動機となっているのだ。


わかりやすく言えば、バッティングセンターでホームランを打つような、良質のミステリー小説を読むような、その類いの爽快感を得るための、ほとんど趣味のようなものなのだ。


補足すれば、道に迷っていた外国人がちゃんと地下鉄にたどり着くかどうか後をつけたのは、せっかく道を教えてスッキリしたのに、「大丈夫だったかなぁ、ちゃんと着けたかなぁ」という余計なモヤモヤを心の中に作らないためだったのである。


話を戻そう。
しかし、それはある意味で最も正しい人助けの動機であると言えよう。

世の中は、表では「慈善だ思いやりだ」などと言って、裏では自らの利益ばかり考えている輩で溢れている。
そんな中、「人助けは自らのためにのみ行う。その人の助けになるのはただの結果に過ぎない。」と公言している彼は、ある意味立派だと言えよう。



そして、かなり阿呆だ。