放屁

 休日の朝だった。いつもより少し長い睡眠から目覚めたばかりの彼に、某放送協会から遣いの者が訪れた。「テレビのあるところは受信料を払え」ということらしい。
 そのような話は、彼も知人から聞いたことがあった。「忙しい」と一喝し撃退した者や、押しに負けて払った者、中には、一度払っておいて後で取り返した猛者もいるという。ある者は、「あれはもはや宗教だ」と声を荒げる。
 ひとりで暮らすようになってから一年と二ヶ月、かつてそのような訪問者は一度もなかった。彼はその訪問者を新聞の集金と勘違いし、迂闊にも財布を持ってドアを開けてしまった。
 後に彼はその時の心境をこう語っている。
「あ〜やってもたぁ…と思いましたね。必死で財布を隠そうと尻ポケットに押し込んだんやけど、途中でポケットから財布が落ちてジャリーン!って音を立てたときは、見てみぬフリをしつつ冷や汗が色んなところから流れ落ちましたよ。あと、寝起きで寝癖ボッサボサだったのとビロンビロンに伸びたシャツを着ていたのでかなり恥ずかしかったですね。」
 彼は、上からの目線で威厳をこめて「学生もみんな払わないといけない」と言ったり、そうかと思うと今度は下手から「払ってもらえませんかねぇ?」と懇願したり、態度を右往左往ならぬ上往下往していじらしく頑張る集金のおじさんに対しては、何度となく払ってあげてもイイかなという気持ちになったりしたらしい。しかしそういう問題ではなかった。その人がどんなにいい人であろうと、背後にある組織がその実態の前に引いたカーテンに過ぎないのだ。払ってしまえばそれまでである。あとはその人物の意図せざるところで巨大な組織が動くだけだ。
 選挙に於いてもしかり。タレントや有名人など「みんなが知ってる人」の存在感で有権者の目を眩ませるのは少なくない政党が得意とするところであるが、そこに政治は必要ない。党としては議席が取れればそれまでである。あとは知らぬ間に野となり山となる。選挙では「みんなが知っている」ことよりも「みんなを知っている」ことが重要であることを忘れてはならない。
 始めは「金がない」と言い訳していた彼も、これでは埒があかないと思い、ドアを押さえる左手が震えるのを隠しつつ、自分の考えを話したらしい。

・中立性、公平性が果たして保たれているのか。
・視聴者の関心、話題性に合わせてニュースを放送しているというが、逆説的にメディアの側がそのインセンティブを作り上げているのではないか。
・自ら不祥事を起こしたのが原因で受信料未払いが激増したにもかかわらず、法的手段をとるなどの権力を傘にした強制的な徴収の仕方はあまりにも身勝手である。(私はこの話しを聞いて、配偶者に散々暴力を繰り返した男が、それが原因で別れた女性に刃物を突き付けながら「もうしないから」と復縁を迫っている構図を思い浮かべた。)

 など、その会話は一時間にものぼったという。そして彼はとうとう、財布を拾い上げることなくおじさんにお引き取りいただくことができたのである。
 彼はよく頑張ったと思う。権力に対して信念を貫くということは、非常に勇気を必要とすることである。私には、それほどの勇気はない。私は彼に敬意を表して、ひとつ、小さなオナラをした。