冬休みの話題

クリスマスにはまだ一ヶ月もあるというのに、街はきらきらしたイルミネーションに彩られている。

冬休みも近付いた大学構内に入れば、学生たちはガイドブックや旅行会社のパンフレットを片手に、冬休みを利用した旅行の話をするのに夢中になっている。
九州やら北海道やらグアムやら香港やら、普段ならおよそ彼らの口から発せられることのないような地名が飛び交うのもこの頃である。
私は、冬休みに旅行に行くであろう学生たちの会話を必然的に聞かされながら、自らの身の上を案じた。
毎日夜通しで、誰かの真心や義理や欺瞞を別の人へ届ける手伝いをして過ごさなくてはならない冬休み。自ら選んだ未来とはいえ、これはなかなかに憂鬱なものである。クリスマスもへったくれもない。


クリスマスといえば。
「日本人は無宗教だ」というのはよく耳にするフレーズである。寺も神社も気にせず参拝し、正月も盆も彼岸もクリスマスも、果ては聖バレンタインやらハロウィーンまで、様々な宗教を凌駕してありとあらゆるイベントに首を突っ込みたがるのがそう言われる所以であろうか。


「一体誰だ、“日本人は無宗教だ”などと吹聴しているのは。」
彼が口を挟んだ。
「身の回りを見ろ。手にするもの全てがどこかで買ったものだ。自由すら、金によって制限される。
例えば、服を買って着なければ、外に出ることもできないだろう。いや、出ることはできるが、きっと世間が許さないだろう。一度でもそのような行為に及べば、屈強なおまわりさんがとんできて成す術もなく取り押さえられ、二度とそのようなことができないように薄暗い塀の中に入れられて泣く泣く余生を過ごす羽目になるだろう。つまり、道を歩く権利すら金で買わなければ得られないのだ。
人々は生産手段を奪われてきた。モノも労働力も、自然さえも、万物が商品化されてゆく!
そうだろう。日本人は、唯一神・シホンによりひらかれた資本(商業)主義教信仰民族以外の何者でもないではないか。しかもこの資本主義というやつは新興宗教にも関わらず、驚くべき早さでこの国のほとんどすべての国民を呑み込んだ。こんなペテンが赦されるのか!」
彼は、はたして本当に人間業かどうか疑わしいほどの速さでそう言い終えると、ひとつ息をつき、さらに持論を展開し始めた。
「クリスマスは商業の祭典だ。その証拠にクリスマス当日よりもイヴのほうが盛り上がる。人々はプレゼントやケーキさえ買うが、それがキリストの誕生を祝うためのものでないことは火を見るよりも明らかだ。
そしてクリスマスが過ぎれば、やたらと騒いでこの一年に起きた悪いことや後悔を全て忘れたり、どっぷり百八つも溜め込んだ煩悩を鐘の音によって昇華できるという御都合主義的イベントが続々と行われる。そしていつの間にか誰かが決めた境界線を時計の針が越えれば、また次の一年を種々の後悔を繰り返し、三日に一つは煩悩を溜め込みながら悶々と暮らしていく、それが日本人というものなのだ。」


彼の理論があらぬ方向へ暴走して久しくなった頃、私は忘れかけていた最初の話題を思い出した。我々は「日本人とは何か」という命題を解明しようとしていたのでもなければ、資本主義批判を展開しようとしていたわけでもない。ただ、冬休みに旅行ができる人々を羨んでいたのであった。

私の横で熱弁を振るっている彼もまた、冬休みに誰かの真心や義理や欺瞞を別の人へ届ける手伝いに明け暮れる運命にある人間の一人である。
偉そうなことを言っているが、今この場所に生きる以上は、やはり金がなければ始まらないのだ。
彼が冬の間精一杯働こうとしているのは、どうやら次の春休みに向けて何か計画を練っているかららしい。