愛車誘拐事件

「ぼくの愛車をどうしても手に入れて、コレクションの一部にしたいという奴らの気持ちもわからんでもない。しかし、だ!」
彼は憤慨した。
「ぼくにそれを手放すつもりがないからといって、黙って連れ去るとは言語道断だ!」


彼の話を整理するとこうなる。先日の夕方彼が電車から降りると、そこに停めておいたはずの自転車が消えていて、代わりにその日付けの撤去報告の紙が駐輪禁止の立て看板に張られていた―。要するに、違法駐車をした自転車が行政により撤去されたのである。


悪いのは彼であるということは、火を見るよりも明らかである。自転車が撤去された一切の責任は彼にあるというのに、彼は何故これほどまでに怒り猛っているのか。その熱源は、彼の、自転車に対する並々ならぬ思い入れにあるらしい。


彼が初めて彼の愛車を手にした日から、今年で7年目になる。公共交通機関の乏しい片田舎であったため彼の愛車はその実力をいかんなく発揮し続け、雨の日も風の日も彼の望む場所へ彼を運び続けた。
また、彼の愛車は決して彼の意志に反することはしなかった。真冬の夕方に彼が塾へ行くのを拒めば、無理矢理塾まで連れて行くなどと野蛮な行為に及ぶことはなく、適当な書店に彼を導いて「さぁ、塾では得られぬ知識を見つけておいで」とでも言わんばかりに彼を待っていた。


そんな愛車の、長年漬けられた梅干しのような、素晴らしく熟成された雰囲気を醸し出す車体、貼られたままになっている高校のときのステッカー、そして実に3度の盗難を乗り越えて彼のもとに帰ってきたという秀吉顔負けの忠誠心、そのすべてに、彼はこの上なく愛着をもっていた。
そんな健気で愛らしい彼の愛車を、その意志を尊重することなく無理矢理連れ去ったことに対して、彼は惜しみなく怒りを爆発させているのである。
「ぼくの愛車が奴らの見世物になって震えているかと思うといてもたってもいられない!奴らめ!決してゆるさんぞ!」


愛車の身を案じた彼は、事件があったそのすぐ次の日の昼休みに、ぷりぷりしながら京都市十条保管所に赴いた。
プレハブ小屋から「ごくろうさん」などと声をかけるおじさんに「本当にいらん苦労をかけさせやがって!」と心の中で噛み付きながら、沢山のかわいそうな自転車たちの中から愛車を見つけだした。
そして、身代金2300円を支払ってようやく愛車を取り戻すことができたのである。
彼は、その手に戻ってきた愛車に向かって「見知らぬ力持ちのおじさんに無理矢理トラックに乗せられて怖かっただろう、おーよしよし」などと戯言を吐き、身代金で私腹を肥やした犯人を、そしてその組織の暗躍を決して許さないことを、琵琶湖疏水の碧の流れに誓ったのであった。