無限行脚〜8寺社踏破への道〜

晦日深夜から新年にかけて、私と彼は京都の街(主に東山)を彷徨い、蛸薬師堂、建仁寺、八坂神社、知恩院高台寺清水寺東福寺伏見稲荷大社
を巡るという全く不毛な行脚を敢行した。


京阪四条駅で集合した我々は、地上から吹き込んでくる空気の冷たさに思わず「うわ!寒い!」と月並みなコメントを吐き、とりあえず祇園周辺や新京極付近をうろうろし、新年近づく蛸薬師堂へ入った。

門のところでだいこ炊きを配っていて、とてもおいしそうである。
おばちゃんに値段を尋ねると、代金は「お気持ち」だという。
財布の中身に危機を感じている我々はすかさず少量の小銭をちゃりちゃりとかごに入れ、味のしみた熱々の大根で暖をとった。
奥でくゎくゎと鳴いているアヒルも2007年の見納めである。


蛸薬師堂をあとにした我々は年越しそばを食べる店を探しながら新京極から三条通りへ、三条通りから木屋町を下り、四条大橋の手前で北に折れて先斗町へはいる。
新京極の蕎麦屋木屋町長浜ラーメンみよしなど候補は挙がったが、最終的に先斗町中程にある閉店間際の柚子元に滑り込み、私は鯛柚子ラーメンを、彼は鶏柚子ラーメンをそれぞれ食べ、年越しそばとした。

再び極寒の街へ出た我々は四条大橋を渡り、祇園白川から花見小路へ入った。
花見小路で四つ葉の八坂タクシーを見つけた我々は嬉しくなっておかしなテンションの写真を撮った。
突き当たりの建仁寺で暗すぎる道におののき、ファミリーマートであんまんを買ってぬくもった。
すっかりお祭りムードの八坂神社では火縄を振り回す人々に脅かされ、知恩院へ逃げた。
しかし知恩院では土産屋の夕子フィギュアの虚ろな目に身の危険を感じ、さらに逃げるように高台寺へ。

高台寺で甘酒を2杯もらい、炎でしばし暖をとる。
除夜の鐘つき現場を目撃するも、炎の威力さえ効かないあまりの寒さに「かまいたちかまいたち!」「肌切られる!やばい!」と騒ぎながら二寧坂、三寧坂を通って清水寺へと至る。
清水寺では人々の生八つ橋への執着心に驚き、五条通りにある五条ゲストハウスでゆず茶をのんで少しばかりまったりした。
東福寺ではあまりの暗さと人の少なさに心細さを感じ、極めつけの「閉門」の看板にはむしろ笑えてきた。
そしておかしなテンションのまま、最後の目的地となる伏見稲荷へと向かった。
既にかなり疲れて凍えそうになっていた我々は、“境内を少しうろうろして帰ることになるだろう”という大方の予想を立てていた。
しかし我々は、我々自身の希望的観測を思いきり裏切ることになる。


雀や鶉の丸焼きにおののき、あまりにも高い出店の品々に文句を垂れながら参道を進んだ我々は、物欲にまみれた絵馬に苦笑いを浮かべて境内の奥へと至った。お参りに来た人々に忘れ去られた手袋と、残されたゴミが印象的であった。


すっかり馴染みとなった千本鳥居をくぐり抜け、あれよあれよという間にふらふらと山道に入り、気付いたときにはもう既に稲荷山をほとんど登りきったところであった。
ここまで来るともはや疲れなど微塵も感じない。むしろ以前登ったときよりも楽に感じるほどである。これがランナーズハイというやつか。
売店などがある、多くの人々がそこまで登れば満足して引き返す場所から、我々は更に上の穴場絶景ポイントを目指し、数多の石段を駆け登った。
そして蝋燭の火がコートに燃え移るのを恐れながら、我々を睨み付けて微動だにしない狐たちの間を摺り抜けた。
柵の間からさらに少し進むと、眼下には澄んだ空気に輝く無限の光が広がり、我々を優しく包み込んだ…。
というような感慨にはまったく浸らなかったのは、男ふたりだったからなのか、文明への反感なのか、それとも寒くてぼーっとしていたからか。

お腹がすいてきたので山の中腹にある店できつねうどんでも食べようということになったのだが、その550円という値段に我々の心は大いに揺らぎ、最終的に稲荷駅横にあるデイリーストアで“赤いきつね”を買って食べるという結論に至った。
お湯の入ったカップきつねうどんを持って再び稲荷大社の参道を歩くのは非常にシュールな光景であっただろう。
途中出店の若い店番に出店の人と間違われ、「お疲れ様です」などと声をかけられながら参道を進み、なるべく人目につかなさそうなところでうどんをすすった我々は、何か大きな事を成し遂げたような達成感に包まれた。
完全に自己満足の行脚を終え、何もないはずの所から絞り出された達成感は、同時に我々に風邪の症状を引き起こした。
鼻水、頭痛が止まらない。
この冬一番の寒気の中12時間も外に居続けた我々は、既に満身創痍であった。


京阪深草駅で“達成感に充ち満ちた風の不自然な笑顔”で記念写真を撮った我々は、朝の6時半頃に別れた。
そして各々家路につき、愚かな行脚を悔やみながら布団に入ったのである。


今回、(自分)史上空前の年越し8寺社踏破を達成した我々であるが、中には「これだけ巡ればどれか御利益があるだろう」とか「そんなにたくさんお参りして、よほど叶えたいことがあったのか。」などと考える人もいるだろう。
我々の欲深さをあざ笑う諸君!!
我々は“お参り”など、一度たりとも行っていないのだ!!
我々は、賽銭も入れなければ願い事もしていない。
神にも仏にもこびることなく、ただただ己の満足のためだけに、寒い寒い寒い寒い京都をうごうごとしていたのである。
世の中の役に立つこともせず、自らの欲求を具現化することもせず、寺社に投資することもせず…。
まさに無意味の境地。
いやむしろ、そこにいた人々の中でもっとも自らの欲を満たしていたのは我々であったのかもしれない。

“無意味に年越しをする”という願望を見事に果たした我々の、愚かな一年がまた始まった。