新学期

うららかな春の日差し降り注ぐ大学の構内を、初々しい表情で新学期早々できた友だちと共に颯爽と歩いているのは、私ではない。
彼らは、その多くが桜ばかり眺めて現実を見ようとせず、舞い散る花びらの向こうに陽炎の如く漠然と未来を夢見るつるんつるんの新入生である。

その希望の塊のような新入生たちの間を疎ましそうに追い抜いていくのが私だ。その私の視線の先に、今まさに生協に入らんとドアを開ける彼がいる。

我々は、これから始まる3回生の前期に大いに溜まるであろうルーズリーフを整理するためのファイルを生協に買いに来た。

新入生たちのように漲る希望や初々しさもなく、とるべき講義のあまりの多さに絶望しながら男二人、もさもさといつも使うコクヨのファイルを買い、外に出てため息をついた。
教職を一応ながら目指す我々には、3回生の間、他の学生に比べて約2倍以上の数の講義がこの先待ち受けていて、それを思うと二人の口からはため息以外のものが出ない。調子のいいときなどは陽気な掛け声のひとつやふたつ、さらには手品用の鳩でも出してみようかといったところなのだが。

特に、3回生でもスペイン語の講義をとってを勉強しようと思っていたのに、教職関係の講義と重なって受講できないと知った彼の落ち込みはかつての村田兆治フォークボールのような勢いであった。

そこで彼が三日三晩寝る前にちょっとだけ考えて思い付いた妙案が、“動画の見れる小型プレイヤーを購入し、ネットからダウンロードしたスペイン語の動画を授業中や休憩時間の暇なときに見る”というものだ。

しかしそれでは講義に集中できないのではないか。私がそう言うと、彼はもともと授業中に本を読んだりするのはよくあることだからほとんど変わりはないというような返事をよこした。
しかしスペイン語の動画を見た場合、その音声も同時に聞くことになる。本を読むのとは訳が違うのではないか。その質問に対しても、彼は得意げに「本を読んでいても頭の中では声を出しているのだからその点では変わらないし、動画の場合は音声を聞きながら目を離すことができる。それに四六時中見るわけではないし、先生の話のすべてが重要で必要な話ではないことも事実だ!」と言い切った。
そしてそのために、どのプレイヤーを購入するかを目下激考中であるという。そこまで言い切るなら、もはや私の意見など出る幕もない。あと彼に言えることといえば、「時々私にも見せてくれ」ということぐらいだ。


まぁ講義をたくさんとるということは高い授業料を自己に還元するためのひとつの手段であるし、その他諸々の事物とうまくバランスをとりながらなんとかやっていきたいものだ。