くらくら

京都盆地の南、日の暮れた京都駅前で、彼はひとりくらくらしている。
1講から5講までびっちりと講義を受け、さらにその後ゼミの友人と前期の研究テーマを何にするかという話をバンプアジカンの話の合間にし、19時もまわろうかという頃に自転車をとばして彼は京都駅に向かった。
あまりそんな時間にそんなところへ自転車をとばしたことのなかった彼は、そこに昼間とは全く違う世界が広がっていることなど考えたこともなかった。
彼を待ち構えていたのは、日の暮れた路地の底にもわもわと淀むえもいわれぬ肉々しい芳香であった。
点在する居酒屋のひとつを覗けば、年齢不詳でやけに艶々の女将さんが「お仕事お疲れ様。一杯どう?」などと中へ誘い、ひとたび暖簾をくぐれば時の経つのも忘れる、きらきらした夢のような世界が広がっているように思われた。


彼はそのあまりに芳醇な香りに「肉々しい!肉々しいなぁこれは!ハァ!」と我を忘れ、妄想と衝動の惰性に任せて自転車ごと暖簾目掛けて突っ込んでしまいそうになったが、彼の自負するところの「強靭な精神力」によってそれをなんとか回避し、京都駅にたどり着いた。

しかしながら、やっとの思いで京都駅前に立った彼を、駅周辺や地下街から漂ってくるおいしそうな香りが襲う。
いかに彼の精神力が強靭で、一度は誘惑に打ち勝ったとはいえ、腹ぺこでふらふらとやって来た彼が再びその誘惑に打ち勝つのは至難の技である。
しかし、いくら彼がその誘惑に負けたからといって、肉々しい香り漂うお店に手当たり次第飛び込んで至福の時間に身をひたひたに浸けるかといえば、そういうわけでもない。食欲と財布の中身は必ずとも連動していないのである。


食欲と理性の狭間でくらくらと揺れながら、彼は思い出す。
「あれ?ぼく、なんのために来たんやっけ?」


京都盆地を、夜が染めていく。その南、煌々と明かりが照らす京都駅前で、彼はひとりくらくらしている。