糧となるカテドラル(KIJS)

彼が、三週間の教育実習を終えた。


深夜まで続く指導案作りや休日返上の教材研究は確かに辛かった。
一週間目が終わったときには、この辛さにあと三倍耐えなければならないのかと嘆いたこともあった。
しかし今は、楽しかった思い出しかない。
授業は楽しい、生徒はかわいい、先生はいい人ばかりだ。


あるクラスでは、「実習生の先生の授業のほうがいい!」「どうしたら実習生の先生が今の先生に変わることができるのか!?校長に言ったらなれる?今の先生が死んだらなれる?」と問い詰められたこともあった。さすがの彼も少々困ったが、中学生たちのストレートな発想にほほえましい気持ちになった。


最後の授業のときには、「教壇に立つのも、先生と呼ばれるのもこれが最後か…」と一人感傷に浸りかけ、危うくテスト範囲まで終われないところであった。


金曜日6校時目の総合の時間には、生徒たちが彼に内緒で企画していたお別れパーティーがあった。
その内容も、連想ゲーム、ビンゴ大会、じゃんけん大会と無邪気な遊びばかりで、最後の最後まで中学生のかわいさに癒された。


ゲームが終わると、何故か蛍の光の熱唱にのせて寄せ書きの色紙をもらい、感極まって泣きそうになるのを堪えながら、彼は最後の挨拶をした。


中学時代にこれといっていい思い出のない(中学の特異性だと先生が言っていた)彼は、この実習によってその思い出を塗り替えることができた。
それは、紛れも無く彼を暖かく迎えてくれた生徒や先生のおかげだ。
教育実習というのは、良くも悪くも教師という仕事の全てを知ることはできないようになっている。
要はいいとこ取りなのだ。
しかし教師になるにせよならぬにせよ、この経験は誰にとっても、他の何にも変えがたいものになる。

彼は教師にはならないが、その経験を人生の糧として生きていこうと思った。





その夜、彼はTSUTAYAで借りたジャガーの映画を観ながら眠った。

かわいい中学生たちがこんなくだらない人間の糧になっていると思うと、不憫でならない。