脈打つ生命

piedra-blanca2009-07-05

深夜。
明日出かける準備を終えてそろそろ寝ようかと横になったときである。
ベランダの網戸越しに、排水溝に何かが詰まったときのような、風邪で鼻が詰まったときのような、なんだかとても通りの悪い音がした。


どこかの部屋の洗濯機でも壊れているのだろうと高をくくっていたが、網戸を開けてみると、足元に猫が一匹、いた。


窓際にはいつくばり、苦しそうにぜいぜいと息をしている。
もがくように、後ろ脚を懸命に動かしているが、立つことができない。


どうしたのだろうか。
しばらく網戸を開けたまま、猫を見ていた。
何か悪いものでも食べたのだろうか、それとも、病気だろうか。それとも…。
いろいろな憶測が頭を過ぎる。


野良猫なので、一応手にビニール袋をはめて触ってみるが、それに対する反応はない。
次第にもがくことにも疲れて、動きが弱くなったその猫を、私は部屋にあった段ボール箱にいれてやった。
親猫が子猫をそうするように、首の皮を持ってその猫を持ちあげるが、なんだかからだが固い。
猫らしいしなやかさがないのだ。

しかし、ビニール袋越しに触ったその猫のからだはあたたかくて、確かに、息をしていた。


遠くで、他の猫の鳴き声がする。
「ほら、呼んでるぞ。がんばれよ。」
声に出してそう言う。
生まれてこのかた、人間に撫でられたことのないであろう背中を、できる限り優しくなでてやった。


「ぜいぜい」という音はだんだん小さくなり、もがくこともなくなった。
それでも、小さくお腹を動かし、呼吸をしている。精一杯、生きている。


もう助からないだろうということは、これでもかというくらいわかっていた。
それでも、朝起きたときに、段ボール箱から姿を消していてくれたら…そう願って、網戸を閉めた。


耳を澄ませば、かすかに呼吸が聞こえた。



なかなか眠りにつけないベッドで、私はなぜあの猫が私のベランダに来たのかを考えた。

元来この辺には野良猫が多く、時々ベランダにやってきては中を覗き込む猫たちに愛着がわかないわけでもない。
何度か晩御飯のおかずを分けてやったこともあったし、一時期は、数匹の猫が私の部屋のベランダを寝床にしていたこともあった。
この猫も、その中の一匹だったのかもしれない。


この猫が最期の場所に私の部屋のベランダを選んだのは、単なる偶然などではない、そんな気がしてならない。
この猫の信頼に、全力で応えたいと思った。




翌朝。
覚悟を決めて網戸を開けた私の目に映った小さな生命はまだ、懸命に息をしていた。


生きている−。


全身の力が抜けるのを感じながら、私は次にするべきことを考えた。
私は今晩、この部屋を留守にするのである。

しかし、この猫を放って行けば、結末の想像があまりにも容易だ。


私は、この周辺の野良猫たちに何年も餌をやっているおじさんのことを思い出した。
確か、私がここに越してきたときに会った覚えがある。
私はそのおじさんに後を託すことにした。
昨日からの経緯と留守にするために面倒をみてやれないという旨を紙に書き、段ボール箱に入れる。
そしてベランダから段ボール箱を持ち上げ、いつも猫の餌が置かれている場所まで持って行った。
猫が一匹入った段ボール箱はあまりにも軽く、それがかえって、生命の絶望的なまでの重さを感じさせる。

私は、この猫の思いに応えてやることができただろうか。
この猫が私の部屋に来た意味は何だったのだろうか。
何故だか泣きそうになるのを抑えながら、駅へ向かった。