白樺派

彼とめんまるさんは、京都文化博物館で行われた「1910年代の文学『白樺』の人々をめぐって」という、早稲田大学名誉教授の紅野敏郎氏の講演に行った。


彼の白樺派に対する知識は微々たるものであったが、紅野氏の87歳とは思えないしっかりとした語り口調(半分くらいは聞き取ることができた)により、白樺派の何たるかという片鱗を垣間見ることができた。


志賀直哉武者小路実篤をはじめ白樺派とはすなわち、「国家社会に関してはほとんど関心を抱かないで、自由に、自己中心的なまでに自己を追究することができた世代。」なのだという。


肉親と友人が交互に、微妙にして巧妙に入り交じるのが白樺派のオフショットで、しょっちゅう会っているにも関わらず手紙を出す。それによって自らの内面を昇華する、というのが彼らのスタイルだったようである。


また彼らの初期の著作(白樺草書)は、草書とはいえ見た目(装丁)も大きさも違うらしい。みんな仲はいいがそれぞれ違うのが、白樺派の人々なのだ。


蟹工船』で有名な,かの小林多喜ニが志賀直哉を敬愛しており、初期の頃には“志賀直哉ばり"の作品も書いていたことも初めて知った。
小林氏は後にプロレタリア文学のほうに行くが、以後も志賀氏への敬愛は持ちつづけており、『蟹工船』を書いたときには志賀氏から「主人公持ちの文学はやめたほうがいいだろう」というようなことを言われていたというエピソードもあった。



新しい時代を拓いたという点で、白樺派は意味のあるものだったのだ。
というのが講演のまとめである。


最後に紅野氏は、「志賀直哉の88歳くらいまではなんとか生きながらえたい。しかし、仕事をしていなくては意味がないので、今日、この場で倒れてもいいという覚悟で来た」というなんとも熱い言葉で締めくくった。



講演を聞き、彼は自らの知識の浅さを恥じた。
人生の浅瀬で、ちゃぷちゃぷとぬるま湯に浸かっている場合ではない、と強く思った。
刻苦せねばならぬ。


講演のあと、彼らは同博物館で行われている「白樺派の愛した美術」の展示を堪能した。
セザンヌゴヤロートレックらの作品は、彼に大いなる感動を与えた。
彼は、白樺派の人々による作品の中でも特に山脇信徳氏の『雨の夕』という絵が気に入ったようである。