思い立ったが東京
彼は今、東京からの帰路にて、電車に揺られている。
約12時間かけて、彼の住む町まで帰るのだ。
そもそも、彼が東京に着いたのは昨日である。
三連休なのに何故か日曜に来て月曜に帰るという不可思議な行動は、土曜は大阪で遊ぶ予定があったからにほかならないが、しかしそれならわざわざ東京まで行かなくてもよかったのではないか。
という、そういった類の疑問は彼には通じない。
なぜなら、彼は明確な目的を持って東京に行っていたからである。
そう、“勉強をする”という目的を。
普通の人なら、この辺りで理解の範疇を超えてついてこられなくなっているはずである。
そこで、“勉強をするために東京に行く”という結論がいかにして生まれたのかを、解説させていただきたい。
まず、彼は来月、仕事で受けなければならない試験を二つ抱えている。
その試験に合格するためには、早い段階から勉強を進めていくことが重要だということは言うまでもないだろう。
しかし、せっかくの三連休にどこにも行かずに家や図書館で勉強をして一日を過ごすのはあまりにももったいない、というのが彼の信条である。
そう、「休みなのにどこにも行かないのはもったいない」という思考が、彼の行動の軸となっていることをここで確認しておきたい。
そこで考えたのが、「電車で移動しながら勉強すれば旅も勉強もできて一石二鳥だ!」という果てしなく阿呆な計画である。
普通の社会人なら思い付かない、仮に思い付いてしまっても一笑に付して通り過ぎるような思いつきを、彼は丁寧に拾い上げて吟味し、実行してしまったのだ。
さらに、今回彼は東京に住む祖母の家に行き、祖父の墓参りをし、敬老の日という名目で祖母にプレゼントもして喜ばれた上、かわいい毛玉たちと戯れて彼自身癒された。
東京へ夜行バスで行って一泊して鈍行で帰る−。
そんなこと、社会人になったらするはずがないと思っていた彼であったが、どうやら彼の人並み外れた(常軌を逸したともいう)思考回路は学生のころのまま、あまり変わっていないらしい。
変わったのは、学生時代よりも時間的な制約が厳しくなったということくらいである。
ところで、肝腎の勉強であるが、車窓からの景色や持ってきた小説、食後の睡魔に夕方の睡魔、通り掛かりのスイマーや電車乗り疲れの睡魔によって散々妨害され、思うように進んでいないのは言うまでもない。
それでも彼は満足げである。
自分の知らない田舎の駅から人の少ない車両に揺られ、祖母が作ってくれた弁当を食べたあと午後の柔らかい陽射しと心地よい振動により昼寝を一服…。
働き始めてこの方、そんなほのぼのした時間があっただろうか。
彼は、この時間を過ごすために、自分でも気づかないうちに敢えて鈍行で帰るという選択肢を選んだのかもしれない。
なんだか、とても贅沢な時間の使い方である気がする。
というのは、私の錯覚だろうか。