一週間
いつもと同じように出勤し、仕事をして、帰る。
休みの日には、カフェに行ったり、美味しいものを食べたりした。
テレビをつければ、連日原発の状況が報道されている。
被災地の映像が映し出されている。
犠牲者の数はうなぎのぼりで、現実味がない。
地震から一週間。
彼は、想像を遥かに凌駕した被災地の現実と、彼の生きるいつも通りの日常との乖離を抱えたままでいる。
仕事にはいくつかの影響が出た。
被災地の金融機関とは為替取引ができないという通達が出ていたし、計画停電の混乱による影響で、東京の保証会社と連絡がとりにくくなったりもした。
それでも、なんだかいつもとかわらないのだ。
報道されているところ、されていないところ、親戚の住む町、停電の影響、燃料不足に買い占め問題…。
すべてが、なんだか遠いところで起きているような気がしてくる。
すべてが、きちんと受け入れられていないのだ。
それでも、情報を止めないことで、なんとか繋がった世界で生きていると感じている彼である。
彼の勤める銀行でも、「外貨預金の問い合わせが殺到している」という通達が出ていた。
外貨預金には以前から少し興味のあった彼も、「やるなら今かな…」などとぼんやり考えていた。
窓口に、客が来ていた。
資産アドバイザーの人と話している。
どうやら、投資信託のことらしい。
そうして、為替にも関係しているらしい。
「あと5分待ったらどうなるかな?上がるかな!?待ってみるわ!!」
「どうなった!?どうなった!?あーちょっと下がったかぁー。まぁええわ!!」
彼には、そのやりとりが、なんだかとても醜いものに見えた。
もちろん、この状況において、一人一人が健全な経済活動をやめないことが重要である―投信を買うことがどれくらい健全な経済活動なのかはわからないが―という意見もあるであろう。
いつもと変わらず生活することで経済は回るのだ。
それでも、彼は違和感を感じた。
「こんなときに―」
自分の視野が狭いとは思いつつ、そう感じたのだ。
今、この客が追い求めている目先の利益は、そう遠くない地域で家を、家族を、そして自らの命を失った人々と表裏一体になっているかもしれない。
そう思うと、いてもたってもいられなくなった。
しかも、それを売ることを仕事にしているということに、哀しさを感じた。
と同時に、外貨預金云々などと考えていた自分を恥じた。
この大きな悲しみを踏み台にして、自分が得をしようという行為だけはしてはいけない。
そう彼は、強く誓ったのであった。