本の妖精的オヤジ

「本の妖精!小さいおじさん!!」
…彼は私に会うなり、わけのわからないことを叫んだ。


彼の話によると、彼の家では、しばしば本が消えることがあるのだという。
本棚に立ててあったはずの本が、誰かに貸した記憶も実家に持って帰った記憶もないのに、忽然と姿を消す。
それも、彼の気に入っている本ばかりらしい。
気に入っていない本は特に気に留めていないので、きっと消えたのか消えていないのか分別がつかないのだろう。



今の所、今までに消えたのは二冊、森見氏の『夜は短し歩けよ乙女』と『有頂天家族』。消えてしまった時期は、前者が去年の夏から冬頃、後者が今年の春から初夏にかけてである。


彼の部屋から本が消える原因は、“本の妖精”扮する“小さいおじさん”もしくは“小さいおじさん”扮する“本の妖精”が、気に入った本から自分の世界へ連れて帰ってしまうからである…というのが、彼の中で今最も有力な説だ。


そこでやっと彼の最初の発言の意味が理解できた。
しかし、その発言に共感することはまったくもってできなかった。




理解と共感は大きく乖離した概念であり、理解はできても共感はできないことは往々にしてある。しかしそれは相手の考えと自分の考えが違うことによって起こるしかたのないものである。
また、無闇に共感して泣いてはいるが、実はなにひとつ理解していないケースも多い。そういう人は、扇動的な言葉や情にに流されやすいので、騙されないように注意が必要だ。
しかし何より危険なのは、何でもわかったような顔をした奴である。そういう奴のほとんどはちょっと賢そうに振る舞っているが、たいてい人の言葉が心に届いておらず、ろくでもない人間なので信用してはならない。にもかかわらず、どこかの国の国民がリーダーとして好むタイプでもあり、理解に苦しむ。




すっかり話が逸れてしまったが、私が彼の考えに共感できないのは、彼の部屋の所々には様々なものがハムスターの巣のように集められていて、彼自身もそこに何があるのかをきちんと把握していないからである。
特に本棚の周辺にはあまりにもいろんなものが積まれていて、ちょっとした小山のようになっている。



彼は、演繹法まがいの大胆な仮説をたてて“小さいおじさん”を探し始める前に、そのちょっとした小山を平地にする過程で本を探すのが先決だというのが私の所存である。